ヨブ記9章
9:1 ヨブは答えた。
9:2 そのとおりであることを、私は確かに知っている。しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか。
ヨブ自身は、ビルダテの語った言葉が正しいものであることを認め、知っていると言いました。それは、正しいものでした。しかし、ヨブは、人はどのようにして、神の前に正しくありうるのかと問いました。ピルダデが考える正しさと、ヨブのそれとは、大きくかけ離れていました。友たちが責めていたことは、人の目に見える行いです。エリファズは、ヨブやその子たちの罪を数え上げました。しかし、それは、実際にはありませんでした。それどころか、ヨブは、心の内で神を呪ったかもしれないと心配し、いけにえを捧げてきたのです。ヨブが問題としていたのは、次節以降に語られるように、神の主権ときよさによる判断基準によるのです。
9:3 たとえ、神と言い争いたいと思っても、千に一つも答えられないだろう。
一つの正しさについて神と論争したいと思っても、神のお定めになることについて、千に一つも答えられないだろうと。自分は、正しいと思っても、神はそうは認めないのです。
9:4 神は心に知恵のある方、力の強い方。この神に対して頑なになって、だれが、そのままですむだろうか。
神は、心に知恵があり、また、それを実現する力のある方です。その知恵と力については、以下に記されています。「知恵」は、御心や計画を受け入れる分別のことです。御心や計画は、神から出てきます。そして、神は、その計画通りに確実に事をなさる方です。また、それを実現する力があるのです。神は、御心のままに事を実現しますが、それは、あらかじめ立てた計画によることです。その計画は、永遠の先までも、聖書に示されています。
御子に関しても、父のご計画の実現のために全てを捧げられた方であり、父の御心を成し遂げられました。知恵のある方なのです。
そのように、知恵をもってご計画のままに事を行い、これを力をもって実現される方に対して頑なになったとしたら、そのままでは済まないのです。人がその御心をすべて知っていて、その御心に完全に適って行動することができるならば、咎められることはないでしょうが、人は、それを知り得ないのです。知らないからと言って無罪とされるわけではありません。結果的には、神の御心に従わない頑なな者ということになります。
9:5 神は山々を移されるが、山々は気づかない。神は怒って、それらをくつがえされる。
神は、山々を移されます。それは、山々の意思にはよらず、山々が気づかないけれども移されるのです。それは、山々の思いや願いに関わらず神の主権と知恵によってなされることです。また、神の怒りに会うならば、山々も覆されるのです。
9:6 神が地をその基で震わせられると、その柱は揺れ動く。
地の基が震わされると、その柱は揺れ動き、地震が起こるのです。
9:7 太陽にお命じになると、それは昇らず、星もまた封じ込められる。
太陽に対しても、星に対しても、その動きも止められるのです。
9:8 神はただひとりで天を延べ広げ、海の大波を踏みつけられる。
天は、神が延べ広げました。ただ一人でしたのです。海の大波も踏みつけられ、騒ぐ波も押さえ付けられます。
9:9 神は牡牛座、オリオン座、すばる、それに南の天の間を造られた。
そして、星座を造り、南に星座が隠れる間を造りました。その星座たちは、空に上るまでの間、その間に身を潜めるのです。
9:10 大いなることをなさって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。
その業は、測り知れず大いなるものです。その奇しい御業は、数え切れません。
9:11 神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。
それでいて、その神の存在を見ることはできないし、気づくこともありません。
9:12 ああ、神が奪い取ろうとされるとき、だれがそれを引き止められるだろうか。だれが神に向かって、「何をするのか」と言えるだろうか。
その方が奪い取ろうとされるとき、誰も引き止めることはできません。誰も、神に向かって何をするのかと言えません。神の主権のままに事をなさるのです。
9:13 神は御怒りを翻されない。ラハブの仲間も、神のみもとに身をかがめる。
神が一度御怒りを現すならば、それを翻すことはありません。ラハブの仲間と言われている者たちも、神の身許に身をかがめます。ここでは、ラハブは、海の巨獣とするのが適切です。
9:14 まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。
ラハブに比較して小さな自分は、神に答えることはできないと。神と交わす言葉を選ぶこともできないと。その知恵と主権の前に、何も言えないのです。
9:15 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。
たといヨブが正しくても、答えることはできないと。神が裁くのであれば、それが神の決定であり、あわれみすなわち同情を乞うだけです。
9:16 私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられるとは、信じられない。
彼は、神が彼の呼びかけに応えたとしても、耳を傾けて聞いてくださるとは信じられないと言いました。彼の弁明を良しとしてくださるとは思えないのです。
9:17 神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、
9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。
ヨブは、さらに言います。神は、嵐のように強い力でヨブを傷つけていると。理由もなく傷を増し加えていると。その苦しみのために息をつくこともできないのです。
9:19 もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。
力について言うならば、神は強いのです。正しさについて言うならば、誰がヨブを正しいとして呼び出すのでしょうか。
9:20 たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。
ヨブがたとい正しくても、ヨブ自身の口で語ったことが不義に定めます。彼が正しい者だと言うそれが不義に定められます。彼が完全でも、神は、彼を曲がった者とされます。
・「正しくて」→全き。完全な。
・「誠実だ」→全き。完全な。
9:21 私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。
今度は、仮定でなく、彼は、完全な者だと言いました。ビルダデが問題としているような罪は、何一つないのです。しかし、ヨブは、自分が分からないと言いました。つまり、自分を知らないということです。神が知るようには、自分自身を知ってはいないということです。それで、彼は、自分の命を拒むと言いました。命とは、彼が正しいとして生きているその歩みのことです。神の目に適って歩んでいるはずなのに、ただ苦しみだけがあります。それがいのちであるならば、それを拒むと言いました。
・「誠実だ」→全き。完全な。
・「憎む」→捨てる。拒む。
9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。
それで、彼は、誠実な者も、悪い者も神からご覧になられたら、みな悪い者なのです。だから共に滅ぼされると。ある程度正しいと思ったとしても、また、完全であると思ったとしても、神が罪に定められるからです。そのような命は、彼にとっては受け入れ難いことです。
・「誠実な」→全き。完全な。
9:23 突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。
潔白な者も死にます。その人は、自分では正しいと思っていたでしょう。しかし、神は、その人を死なせます。突然の試練に会わせるのです。それを嘲りとされます。それは、たとい人が正しいと思っていたとしても、神の目には悪であるからです。
9:24 地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。
正しい者も、神によって試練に会い死にます。逆に、悪しき者は、地を支配します。裁き人は、恥のために顔を覆います。神がそうされるのです。神の主権によるのです。
9:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。
9:26 それは葦の舟のように通り過ぎる。獲物をめがけて舞い降りる鷲のように。
彼が苦しみに会ってからの日々は、あっという間に過ぎ去り、しかも、神の目に適った良いものを見ることがありませんでした。彼が求めたものは、単に肉体の癒やしではありません。神とともに歩むその霊的に良いものを何一経験できないのです。三十五節では、恐れずに神に語りかけることを願っています。そのような交わりに回復されることを願っているのです。
・「幸せ」→良い。本質的には、神の目に適っていること。
9:27 たとえ「不平を忘れ、悲しい顔を捨てて明るくふるまいたい」と私が言っても、
9:28 自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。
彼は、彼の身に起こったことを深く考えていました。もう、そのような苦難について深く考えることをやめ、悲しい顔を捨てて明るく振る舞いたいと言ったとしても、苦痛は去ることなく、怯えていました。彼の苦しみが去らないのは、神がヨブを潔白な者としないからであることを知っていると言いました。
・「不平」→熟考。含意として、口から出てくる祈りや不平。ただし、ヨブは、全く不平を言わないことが評価されている人であり、ここで、不平と訳することは、不適切。
9:29 私はきっと、悪しき者とされるでしょう。なぜ私は、空しく労するのでしょうか。
彼は、きっと悪しき者とされると。彼は、あらゆることにおいて正しくあることを求めたのです。御心に適わないことが苦しみの原因であるならば、御心に適うようになることを求めたのです。しかし、空しかったのです。苦しみが去ることはありませんでした。
9:30 たとえ私が雪の水で身を洗っても、灰汁で手を清めても、
9:31 あなたは私を墓の穴に沈め、私が着る服は私を忌み嫌います。
雪の水は、清い水のことです。灰汁は、油汚れも落とします。それらによって身を清めても、それによって清いとされることはなく、神は、汚れた者として穴に突っ込み、彼の身は、汚れた者として服に忌み嫌われます。
9:32 (なぜならば)神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。
なぜならば、神は、自分のような人ではないからです。神とともに裁きの座に行くことはできないのです。神が人をご覧になられたならば、清いとはされないのです。
9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
そして、仲裁者もいないと言いました。彼に罪があったとしても、神に受け入れられるように執り成してくださる方がいないと。
9:34 神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。
9:35 そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。
「杖」は、裁きとして打つ物を表しています。神がヨブから杖を取り去ることを願いました。彼は、主が責められるその恐ろしさに怯えていました。
彼が求めたことは、そうしてくださるならば、ヨブは、神を恐れずに語りかけることができます。以前のような交わりを回復できるからです。